1 ソビエト連邦書記長 (1)

 昭和47年、右藤の後を受け総理大臣に就任した畑中が「日本列島変造論」をぶち上げ、空前の地上げブームが到来すると、修太郎の所持していた二足三文の原野や山林も法外な値段で取り引きされるようになった。これによって得たあぶく銭で、修太郎は海外進出を決め、それまで既存の暴力団が敬遠していたソ連との接触を図った。
 日ソ間では、公的な漁業協定のほかに、民間による私的な漁業密約も交わされていたが、修太郎はそれに一枚噛んでいたのだ。ソ連が設定した漁獲禁止区域での出漁を黙認させるかわりに、ドルをソ連側の官憲に渡す手段が一般的だった。ソ連側には悪質な役人もいて、漁民側の弱みにつけこんで法外な賄賂を要求する者もいた。交渉は公海上で行われたが、相手の警備艇は武装しているので、恐喝されると漁民達は言われるままに金を払うしかなかった。
 修太郎は「日ソ和親興業」という株式会社を設立し、正規の外交ルートを使って、モスクワ・ウラジオストック・ナホトカ・ユジノサハリンスクに営業所設置の認可を得た。営業所も名目は北海道産海産物の販売であったが、真の目的はソ連の官僚とコネクションを作ることだった。モスクワ以外の地の官僚達は極端に金欠状態だったので、買収は容易だった。モスクワの官僚を買収するには相当の資本投下が必要だったが何とか成功することができた。ソ連の官僚は賄賂ずれしている連中が多く、態度は横柄な上に強欲であったが、修太郎は損を承知で賄賂を贈り続けた。
 すると、次第に高官へのコネクションの道が開けるようになった。修太郎の金払いの良さに目を付けた上司が、「俺に紹介しろ」と下級役人に圧力をかけたからだった。
 このようにして、遂には首相のコスカラキンや書記長のブラジャネブと面談する機会を得た。彼ら高官は週末別荘でパーティを開く習慣があったが、コスカラキン主催のパーティに修太郎が招待されたのだ。これは外国商社の中で、修太郎の会社が賄賂額で図抜けていたためだった。巨額な賄賂を贈る修太郎の真意を確認したい意味もあった。
 修太郎はブラジャネブとカクテルのモスコーミュールを交わしながら、「政府レベルでは日ソ友好がなかなか進展しないから、せめて民間レベルでは活発にお付き合い願いたいものだ」と語った。そして、同伴していた日本から連れてきた美人女優とスイス銀行の百万ドル小切手をプレゼントした。
 感激したブラジャネブは修太郎の頬に接吻して、「私と君とは今日から兄弟だ」と叫んだ。周辺にいた取り巻き連中が一斉に歓声を上げた。
「兄弟がわが国でうまく事業できるように、これは私からのプレゼントだ」
 そう言って、ブラジャネブは名刺を取り出し、裏に署名した。
「これで問題はすべて片付くはずだ」
 と、ブラジャネブは自信たっぷりに言った。
 修太郎はブラジャネブの名刺にものを言わせて、北方領土の水晶島に武装船を配備し、ソ連側から恐喝をされた場合武力で対抗できる準備を整えた。一方、ナホトカの海軍も買収し、随時警備艇を使えるようにした。
 修太郎がソ連の警備艇と交渉するようになって、ぼられることがなくなった漁民達は喜んだ。時たま交渉が決裂して銃撃戦になることもあったが、既に上位の役人を買収してあったので、発砲した警備艇側が処分されることになった。警備艇側も事情が判り、修太郎の船に逆らう者はいなくなった。修太郎は自前の武装船が漁船と間違われないように、船体を黒塗りにして船腹の中央部に巨大な日の丸を描き、その横に白字で「反共憂国連盟号」と書き入れた。
 平民宰相として人気の高かった畑中も、ほどなくしてただの金権亡者にすぎないことが暴露され、人気も急落した。疑獄事件も表面化した時、第四次中東戦争が勃発し、オイルショックが日本経済を震憾させた。沸騰していた土地価も冷や水を浴びせられ、株価も暴落した。物価だけは無茶苦茶に上昇し、庶民は生活苦にあえいだ。修太郎も少なからぬ損害を被ったが、ほどなくしてソ連から助け船が出された。
 ソ連は過剰な軍事費を抱え、外貨不足に悩んでいた。そこで価格が急騰した原油に目を付け、売りさばく手段を模索していた。国際石油販売ルートから閉め出されているソ連は、今回のオイルショックを好機と捕らえ、各国に売り込みを図った。しかし、アメリカの恫喝を恐れて後込みする国が多く、ソ連の思惑通りには運んでいなかった。そこでKGBは修太郎に目をつけて密売計画を持ち込んだ。
 相談を持ち込まれた修太郎はホットで危険なソ連産原油を安全に冷ます手段を講じた。小量の取引なら、漁船に偽装させたタンカーで北海道に運ぶ手段も考えられたが、ソ連側が提示した量は半端なものではなかった。いくら暢気な北海道の官憲も大型タンカーで密輸などをすれば黙っているはずがない。
inserted by FC2 system