6 ラッキード事件 (1)

 このような状況下で年が暮れ、昭和51年になった。切羽詰まった福畑は岬に泣きついた。八十歳を迎えた岬はさすがに権力の中枢からは外れていたが、福畑派内では大御所として隠然たる権力を保っていた。岬の権力に対する執着ぶりは強欲者が集っている永田町内でも尋常ではなく、与野党の別なく岬のことを昭和の魍魎と呼び、不気味がられていた。
 岬は福畑を岬派のプリンスとして目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたので、福畑のために何とかしてやろうと考えた。
 岬の最大の武器はCIAとのコネクションだった。首相在任当時から、CIAのスパイなのではないかと噂されたほどの徹底した親米派ぶりだった。実際に岬とCIAとは深い繋がりがあった。岬は現在でも自分の知り得た国家機密を逐一CIAに報告していた。
 戦前軍部にどっぷり癒着し、東条第一の子分として名を売った岬は終戦直後当然のごとくA級戦犯としてGHQに逮捕されたが、満州で貯め込んだ財産のほとんどを賄賂に使って釈放された。この財産は暴力によって満州の中国人から巻き上げたもので、日米開戦が行われた昭和十六年にソ連経由でスイスの銀行に輸送された。開戦後国務大臣兼軍需次官に就任した岬は、敗色濃厚の中で軍需物資のちょろまかしに精を出した。巧みに隠蔽したので、敗戦後も没収は免れていた。岬は釈放された時、命と引き替えに身も心もGHQに忠誠を誓うと署名したのだった。
 CIAとしては権力の中枢から外れ小ネタしか報告できなくなった岬に見切りをつけていたが、ここに来て岬を再利用しようという機運が生まれていた。理由は畑中の存在だった。       
 アメリカ大統領のネグソンは畑中に対して強い警戒感を持っていた。これまでの首相は岬・池畠・右藤と全てアメリカに忠実な子分であったが、畑中は右藤の子分でありながら、右藤を裏切り、後継者の福畑を退けて首相になった男だった。どれほどアメリカに忠節心があるのかは量りかねていた。
 それでも、畑中が首相に就任した当初は、金で操縦できる扱いやすい男という認識だった。しかし、表面的にはアメリカに恭順の意を示していた畑中も、ネグソンが大統領選挙時に対立候補の事務所に盗聴器を仕掛けたのがばれて社会問題になると、アメリカに無断で中国に接近したり、アラブ諸国に秋波を送ったりし出した。このことはユダヤ系の企業・マフィアの怒りを買ったが、中でもネグソンを激怒させたのは、畑中が密かに野党の金主党と連絡をとっていることを知ったからだった。ネグソンはまもなく失脚して金主党が政権を取る。だから、前もって金主党の大統領候補に金を掴ませて恩を売っておけば、いろいろと便宜がはかれる。特に金主党はユダヤ系財閥の影響が強いので、アラブと接近したことによって悪化した対米関係の修復に役立つのではないかという畑中独特の先物取引感覚の読みだった。
 しかし、一見自分に降り掛かった火の粉を消すのに精一杯のような印象のあったネグソンも思いの外したたかで、利権に対する執着度は超人的だった。ネグソンとしては露骨に金主党に肩入れする石油メジャーに対抗するためには、独自のアラブコネクションが必要だった。その大切な利権を畑中ごときに食い荒らされてはたまらない。
 また、自分の不人気挽回策として決行した中国との宥和政策も、尻馬に乗っただけの畑中に利権を横取りされては、一体何をしていたのだか判らなくなってしまう。ネグソンは畑中潰しに本腰を入れることにした。そこでCIAを使って畑中の金権ルートの洗い出しにかかったのだ。知り得た情報は岬を通じて日本のマスコミに流された。
 結局ネグソンは畑中よりもタッチの差で早く辞任に追い込まれたが、後を継いだフォラードは当初の内はまだネグソンのイエスマンだったので、ネグソンの意向を受け、まだしつこく政権に執着していた畑中に引導を渡すために現職大統領として初めて来日した。
 大統領辞任後のネグソンの権力失墜は急激で、棚ぼた式にフォラードは全権を掌握することができたが、もともと気の小さいフォラードはネグソンが完全に失脚してくれないことには安心できなかった。ネグソンの子分であっただけにネグソンの弱みも知ってはいたが、それ以上に弱みをいろいろと握られているので気味悪かったのだ。
 フォラードはネグソンに楯ついた畑中を利用してやれと考えた。自分に忠誠を誓っている福畑の味方をしてやるためには、辞任後もまだ権力の椅子に居座ろうとする畑中に対して、徹底的に叩いておく必要がある。
 フォラードはネグソン完全失脚の仕事をCIA長官のプッシュに命じ、ついで畑中叩きもやらせることにした。
 プッシュは二つの仕事を別々にするのは面倒だと考え、一石二鳥の方策を思いついた。
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