No51

霊現象の起源を求める

太古では、人類は理解不可能な自然現象に 対して畏敬の念をいだき、その存在を理解で きる具体的な形に置き換えて理解しようとつと めました。

「霊」はその解釈としてイメージされたのではな いかと考えられます。

霊には人格をともなうケースが多いのでその 理由も検討しなければなりません。

それでは、このような解釈はどうでしょう?

「無意識の作用で、理解不可能な現象を理解 できる人間関係に置き換えて解釈したものが 霊ではないか?

さらには、

潜在化していた死んだ人間に対する記憶や感 情が、ある種の刺激によって視覚的イメージと して顕在化したものも同様に霊として認識され るのではないか?」

確かに、人間の認識法は「パターン認識」が原 則であり、抽象的なものは具象化させて理解 したがる傾向があります。

具象化の中でも人間に見立てるのが1番わか りやすいようです。

本来は特定の形のないはずの「神」がいつ間 にか人間の姿で祭られるのもその例です。

このように潜在化している人間関係の認識と 理解不能な自然現象とが、大脳内でまぜこぜ に合わさってしまえば、それらが何かの刺激で 意識に現れた時人格を持った「霊」として理解 される可能性があります。

しかし、社会環境が決定的に違う者同士が「 共同幻想」を持つためには、人類の認識法が 共通しているだけでは説明しきれません。

さらに、「臨死体験」の中で説明困難なことが あります。

被験者の心臓停止期間は数分の場合が多い のですが、その間に体験した記憶が異常に多 いのです。

「多いような感覚があるだけで、実際はわずか な記憶でしかない」と主張することもできます が、わずかな時間で多くのことをイメージすると いうことは、大脳が活発に働いている必要性 がありますが、心臓が停止するということは、 脳にとってはかなりの悪条件のはずです

それにもかかわらず、ふだんの体験よりも密 度の濃い情報を覚えているということは、この ことが大脳内の生理現象のみによって起こる という考え方に矛盾します。

「心臓停止時に体験した内容は、日常の時間 帯とは異なる時間であった」このように考える ほうがよさそうです。

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