『説法というのは宇宙知識を正しく説明することなんですよ。
真空の基本的概念を思い出してください。
宇宙知識は真空と同一であると説いているのです。 このことを聴衆に理解させることが説法なのです。
真空はエゴイズムがない。 だから、自己存在へのこだわりがない。
そのため自己存在も必要としません。 そうなれば真空には生や死が存在しないことになる
だから、生命現象も必要ないことになります。 生命現象は生死を越えた連続した時間を持っていないのです。
また、真空は自己存在を必要としない。 ということは、真空内部では相手を対象として認識することもありえません。
自己表現する必要がない。 だから、真空同士を区別するための名称もない。
当然、言語も必要としません。 言葉がなければ思考も存在しません。
間接的な原因が生じないから直接的な原因も生じません。
つまり、真空は全ての存在に対して現われているものです。
他の存在に付属してはいないから、宇宙知識と同一なのです。 未来から現在・過去へと移動することはない。
差別の姿を離れ、願望もありません。 また、それは美醜を離れ、増減もなく、生滅もなく、帰るところもなく、五感や意識を超越し、エネルギーの高低もない。
常に存在し変化することなく、全宇宙のあらゆる力学的作用の影響を受けません。
ねえ、モドガルヤヤーナさん。真空とはこうしたものなのです。
このことをどうして聴衆に説明することができるでしょうか?』
このように聞かれたので、 『確かにあなたのおっしゃる通り、真空を言葉で説明するのは大変難しいことです。
特に知識に乏しい一般大衆を相手に説法をするときは本当に苦労します』
と私は正直な気持ちを述べました。 すると彼は、 『本当は、真空を説明するための言葉など存在しないし、説法する人も存在しない。
それを聴く人も存在しないし、聴くことも知ることも存在しないのです。
ですから、説法者は例えば腹話術師が自分の操作している人形に対して説法するような心構えで常に説法しなければならないのです。
また聴衆の理解力には個人差があることをわきまえなければなりません。
つまり、通り一遍の言語手段で宇宙知識を聴衆に説明することは不可能です。
唯一の伝達手段は宇宙進化を促すエネルギーを利用することなのです。
そのエネルギーを得るためには覚者の指導を得て宇宙知識の働きを研く他はありません』
と彼がこのように説明した時、この話を聴いていた聴衆は大いに納得しました。
私は喋る言葉を失い、すごすごとその場から引き上げざるを得ませんでした。
ですから、私よりも口のうまい相手への病気治療などできるわけがありません」
モドガルヤヤーナは話しているうちに、その時の羞恥心を思い出して顔を赤らめた。
ゴータマ師は表情を曇らせて尋ねた。 「そんなことがあったのか。
それは辛い思いをしたことだね。それで、以後の説法はどのようにやっているのかな?」
「ヴィマラキールティさんのおっしゃられた通り、ヨーガ行をして自己の研鑽に励み、クンダリーニのエネルギーを高めています。
ですから、それ以来説法はしておりません」
ゴータマ師は苦笑いした。 「そこまで思いつめることはないよ。
確かにヴィマラキールティ君の言った通りだが、水は高いところから低いところで流れるものだ。
現在の君のレベルでも、君よりも低いレベルの聴衆に対して説法は有効なんだ。
瞑想をすることも大切だが、聴衆を説法することだってヨーガ行なんだからね。
明日からはまた説法をしなさい」
「はい、わかりました」
そう言ってモドガルヤヤーナは拝礼し自分の席に戻った。
ゴータマ師は次にカーシャパにヴィマラキールティ宅への訪問を命じた。
するとカーシャパも断ってきた。 「尊師。私もできません。
なぜかと申しますと、八ヵ月ほど前のことですが、私は貧民街で乞食行をしていた時ヴィマラキールティさんに会い、やりこめられてしまったのです。
その彼はこう言いました。
『やあ、カーシャパさん。どうしてあなたは金持ちの家へ行かないで、このようなろくに食物のない貧乏人達の食料をねだったりするのですか?』
私が、 『金持ちの家から多大な寄付を仰ぐことはたやすいが、このような貧乏人からなけなしのの食料を寄付させることは大変難しい。
彼らの多くは生活苦のために心も偏狭になっているのです。 そのような彼らでも宇宙知識を求める権利がある。
私は彼らのボランティア精神を向上させることによって、その機会を施しているのです。
彼らが私に施す食料はわずかですが、彼らにしてみれば貴重な食料です。
食料に対する迷いを断ち切らせ、それを寄付させることによって彼らの精神は浄化されます。私はその手助けをしているのです』
と答えますと、彼は哀れみの表情を浮かべて、
『その考えは少しおかしいんじゃないですか?』と言いました。
私はヨーガ行者として自明の理を述べただけなのに、彼はそれを否定したので、
『いったい私のどこが間違っているのですか?』と問い直しました。
すると、彼はこのように言いました。 『金持ちと貧乏人とを区別するところに、あなたの未熟さがあるのです。
あなたはこだわりをもって乞食行をしていることになる。 いいですか、全ての存在は平等なのです。
食料に関しても同じことが言えます。 人間に限らず全ての存在に平等なのです。
ところであなたは食物連鎖という言葉を知っていますか?』 こう質問されたので、私は『知らない』と答えました。
すると、彼はこのように言いました。 『食物というのは全ての存在が関わりを持っていることを理解するための仮の手段なのです。
生物はお互いに食べ合うことによってその形を維持しているけれども、生物自体現象にすぎないので、食物も実体ではありません。
ただ、宇宙知識を理解するための手段として存在しているのです。
乞食行の目的は宇宙知識を理解し、真空と合体する修行なのです。
したがって、乞食行をする時には食物に対する全ての想念を捨てなければなりません。
どこで乞食行をするにも無人の村に行くような気持ちで臨む必要があるのです。
勿論食物に対する味覚・嗅覚・視覚・触覚の感覚も捨てなければなりません。
誤った想念を持ったままこの行をすれば、当然苦痛を伴いますが、それが正しい情報を知る手がかりとなるのです。
食物に対する感謝の念や、寄付による功徳なども迷いによる妄念ですから捨てなければなりません。
食物に対するあらゆる妄念を捨て乞食行ができた時、初めて食物は価値を持つのです』
彼がこのように話した時、私は自分の未熟さを思い知らされました。
長年尊師の教えを受けていながら、私はこだわりの心を持って乞食行をしていました。
彼の言葉を聞いて目から鱗が落ちたような気がしました。 私はさっそく弟子や仲間達に彼から聴いた教えを伝え、過ちを正しました。
ですから、このような偉い人の病気の治療など私にできるはずはないのです」
ゴータマ師は、ヴィマラキールティの論法は弟子のボランティア精神をあっさり否定しているのでいささか軽薄だと思った。
だが、そのことは口には出さず、単に、 「それならしかたがないね」と言った。
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